Thesis

あなたにとって芸術鑑賞とは何か。

あなたにとって芸術鑑賞とは何か。

米田 拓男

 遺伝子生物学の中に「利己的遺伝子」という理論がある。この理論に従うと、人間は遺伝子の乗り物にすぎず、何万年という時の中で遺伝子それ自身が進化してゆくことが重要なのであって、私たち人間の身体はそのために利用されているだけだということになる。そして、社会に適応できない人は子孫を残すことができないということ、さらにショッキングなことに、いじめによる自殺までもがこの遺伝子淘汰の文脈で説明されうるのである。つまり、遺伝子にとっては優れた能力や資質を持った情報だけが生き残ってゆけばいいのであって、社会の中で生き残れない虚弱体質の人間や、社会に適応する能力のない人間は死滅しても何の問題もないという訳である。

 このようなロジックをつきつけられると、果たして自分は生き残るべき存在なのかと悩んでしまうが、このような過激な理論が仮説とはいえ存在するのだ。

 激しい情熱をカンバスの上に表現し、短い人生を駆け抜けた画家ゴッホ。彼もまた淘汰されるべき遺伝子の持ち主だったのだろうか。彼はピストル自殺でその生涯を閉じる。彼の作品を見ると、そこには生の歓喜とはほど遠い、憂鬱、不安、恐怖、そして死の予感とも言うべきものが充溢している。自殺直前の「カラスのいる麦畑」はまさに死を象徴している。背後の空は紺青に彩られ、あくまでも暗い。その空の一角には、古くから死の象徴であるともいわれるカラスが群れ飛んで、ゴッホの死を見とり、かつ冥界への先導をつとめるかのようである。失恋の痛手、芸術的創造力喪失の不安、いつ襲われるともしれない精神運動発作の恐怖。それらに、彼の心は確実に蝕まれていった。確かに彼の極端な生真面目さや、憂鬱体質が遺伝子の進化にとって有益な特質だったとは擁護しがたい。競争に勝ち残った強い人間だけが生き延びることのできるこの世界では、ゴッホのような後ろ向きのDNAなど、死すべき弱者の脆弱な遺伝子でしかなかったのかもしれない。芸術の歴史の中には、このゴッホのように芸術に殉死したかのように見える作家がしばしば現れるが、芸術活動とはこの利己的遺伝子に逆らう、ゲリラ的な何物かであるのかもしれない。

 芸術作品は観る者に生き方を教える。生活のやり方ではなくどうやって生き続けるのかを。ゴッホの「カラスのいる麦畑」に死が溢れていようと、その作品を見て死にたくはならないはずだ。むしろ逆説的に生を強く感じるだろう。僕は芸術を宗教の代わりにさえなりうるものとして考える。僕にとっての芸術鑑賞とはそういうものだ。

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